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「お好み焼き」とは
こんにちは。飲食事業担当の柳澤です。
「もんじゃ焼き・お好み焼き・鉄板焼き 竹りん」は開店してから、約1ヵ月が過ぎました。リニューアルオープンしてから多くのお客様にご利用いただいております。前回は「もんじゃ焼き」について書かせていただきました。「もんじゃ焼き」は東京で発祥した料理です。今回は「お好み焼き」についてです。家庭でも馴染みがある「お好み焼き」。どちらかというと西のお料理という印象です。関西や広島は「関西風お好み焼き」、「広島風お好み焼き」など認知度が高いかと思います。また、各店舗・企業でもこだわりやアレンジしたソースなどを使ったりし、種類は多種多様。そんな「お好み焼き」「お好み」の歴史を記載していきたいと思います。
お好み焼き祖先「煎餅(センビン)」
お好み焼きの原型となったものは、煎餅(センビン)といい、小麦粉を水で溶いて、平らに焼いただけのシンプルなものです。また中国では小麦粉で作ったこの種のものを餅(ビン)と呼んでいます。
煎餅は古く、夏(か)の頃(新石器時代)から似たものが作られていたようで、その時代から陶ごうという煎餅を焼く調理器具が出土しています。孔子の思想を前進させた墨子の言葉にも煎餅が登場し、その当時から庶民が主食としていたようです。
お好み焼きの原型とも言うべき煎餅ですが、中国の煎瓶はあくまでも小麦粉を水でといてクレープ状に焼いたもので、その中に別に調理した副菜を包んで食べる、いわば具の容器兼用するものが大半でした。
昔から、それも新石器時代から粉物が好きなのかなと感じます。また、日本だけでなく中国でもお好み焼きに近いものが食べられていることがわかり、日本だけでなく世界の食べ物だと感じます。
そして、米文化だと思ってましたが、粉文化も日本や他のアジアでも発展していたことがわかります。
最初の伝道師 吉備真備
唐で新しい知識を身に着けて帰朝した新進気鋭の学者である吉備真備(きびのまきび)は、大学での課外授業として教室に小麦と小麦粉持ち込み、学生たちに長安における粉食文化のすばらしさを説いていました。そして、講義の締めくくりに、長安で習い覚えた煎餅(ゼンビン)を自ら焼いて学生に試食をすすめたと言われています。
粉食文化の普及に寄せる吉備の情熱もむなしく、日本の粉職は団子と麺類にのみ嗜好が傾斜して行き、煎餅類は久しく陽の目を見ることはなかったのです。
歳月を経て、わずかに煎餅の流れを組む「ふの焼き」が、千利休らの手によって茶会に登場する日を待つしかないのでした。
吉備真備さんが流行らせようとしたが、うまくいかずに当時は団子や麺類が好まれて、しばらくは細々と作られていたのだと感じるとメジャーになった「お好み焼き」はすごいなと思います。また、この時に流行っていたら今とは違うお好み焼きになっていたかもしれないですね。
生みの親は千利休
室町時代に、茶人の千利休は「ふの焼き」を茶菓子として用いるようになりました。
この「ふの焼き」はうどん粉と水と酒でねった生地を薄くのばして焼き、味噌をぬって丸めたもので、日本的お好み焼きの原型と言われています。
室町時代に千利休が茶会で披露したことで、お好み焼きの原型が広まったのですね。
そして、千利休は茶道だけではなく、日本の食文化、粉文化にも影響を与えていたことがわかります。
お好み焼きのはじまり
戦前、駄菓子屋の店先で買い食いする「もんじゃ焼き」が人気になりました。それに対して、テイクアウトできる「どんどん焼き」が登場します。洋食のブームに伴い、このどんどん焼きに洋食文化であるウスターソースをぬったものが「一銭洋食」で、昭和初期にソースの香りと今までにない味が子供達に大人気となりました。
そして、戦後の飢餓時代。
空腹をいやす食べ物を求めていた頃、にわかにクローズアップされた食べ物がありました。その食べ物こそが、子供たちの間で人気のあった駄菓子屋の「一銭洋食」だったのです。
戦前の大人たちは、この「一銭洋食」を子供騙しのおやつぐらいにしか考えず見向きもしなかったのですが、背に腹はかえられないと、子供たちの「一銭洋食」を国民的な食べ物に格上げたのです。お好み焼きの歴史はこうしてはじまりました。
「もんじゃ焼き」もそうでしたが、子供のおやつがはじまりの食べ物だったのですね。それが、戦後の食べ物のない時代に大人の食べ物になったということですね。戦争はいろいろな影響を与えることを改めて感じました。
また、「お好み焼き」の原型はテイクアウトができることで世に生まれたのですね。
お好み焼き店のパイオニア
盛り場にいち早く店を開いたパイオニア達は、子供たちに人気のあった「一銭洋食」の上に、申し訳程度の豚肉を入れ、呼び名を「お好み焼き」へと変更し、大人の食べ物として通用するようにしました。
このように新しい世界に踏み出した「お好み焼き」でしたが、、まだ、昭和20年初期の頃は、空腹をおさえる手ごろな食べ物といった評価しか得られず、街の片隅でほそぼそと焼かれる存在でした。
豚肉をのせることで「お好み焼き」という名前になったとありますが、竹りんのお店でも「お好み焼き」で人気なのは豚肉をのせた商品です。昔から豚肉との相性が抜群だったのですね。
お好み焼きの地位確立
昭和30年に入ると、地域やお店ごとにキャベツの切り方も違ったり、様々な豪華な具材やソース・マヨネーズだけでなく、チーズソースを使ったり、彩も華やかになっています。
「お好み焼き」は食欲を満たす食べ物のイメージから一転して、大人の味覚に充分応えうるものとして、あらゆる層から、圧倒的な支持を得るに至ったのです。
まとめ
「お好み焼き」の原型は古く新石器時代にあり、中国でも似たような食べ物がありました。
日本では吉備真備さんが広めようしたがうまくいかず、千利休が茶菓子として「ふの焼き」を広めたことにより、「お好み焼き」の原型が日本に広まった
戦前に店で買い食いする「もんじゃ焼き」が人気になり、テイクアウトできる「どんどん焼き」が登場する。「どんどん焼き」にソースをぬって「一銭洋食」が人気になる。
戦後「一銭洋食」に豚肉をのせて「お好み焼き」と名前になる。このことから、「お好み焼き」はテイクアウトから始まった料理とも考えられます。形や味、具材を替えて今の形になったこともわかり、広めたのは千利休も意外でした。
「お好み焼き」はテイクアウトが始まりの料理であったということもあり、「もんじゃ焼き・お好み焼き・鉄板焼き 竹りん」でもテイクアウトを始めます。
テイクアウトメニューの商品情報です。まずはお好み焼。人気の「豚玉」や魚介類、豚肉を使った具材たっぷりの「竹りんスペシャル」がおすすめです。また、皆様から美味しいと評判のソースを使った焼きそばも提供予定です。
ぜひ、宜しくお願い致します。
参照・引用:オタフクソース お好み焼きの歴史 https://www.otafuku.co.jp/okonomiyaki/history/past/
店舗情報はこちら
店舗名:もんじゃ焼き お好み焼き 鉄板焼き 竹りん
店舗住所:長野県小諸市滋野甲1171-3 (https://maps.app.goo.gl/VR3E6FRNXNefW94e6)
ホームページ: https://chikurin.hp.peraichi.com/top
Instagram: https://www.instagram.com/chikurin11713/
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